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「変わっている人」と「浮いている人」は、決してイコールではない。
前者は、どれだけ周りとかけ離れた性格や思考をしていても、必要があればきちんとその場、周りに合わせることが出来る人間だ。だからこそ、周りに馴染んで、受け入れてもらうことができる。要は、変わっていても相手や集団のことを考えられる人間が、自らのアイデンティティをプラスの方向にとらえてもらえるわけである。
それが出来ない後者は、ただの協調性のない困ったちゃんでしかない。人のことを考えない人間が自分のことを考えてもらえないのは、至極当然のことと言えよう。
「浮いている」人間には、性格に難のある人物が圧倒的に多い。だから「浮く」のだとも言えるだろう。
「変わっている」人は、性格は変わってこそいるが、決して悪くはない。そこが、「浮いている人」と「変わっている人」の差異だろう。
それなのに、「自分は人と違うから周りと合わないのは当然、合わせる必要もない、でも周りは自分を認めなければならない」なんて、身勝手な勘違いをしている人間が後者には多い。そうして、周りは自分よりも劣っているのだとか、周りの人間はくだらないのだとか、そう言ったことをのたまうのだ。
そのことでいじめに遭っている、と思う人間もいる。尤も、それはただ「浮いている」だけなのであって、決していじめの範疇には入らないはずなのだが。
「いじめ」とは、いじめられている人間がいじめだと感じたらそうである、というのを聞いたことはある。しかし、それは違うだろう。無意識に、主導者不在で行われているのなら、それは単純にその人物が周りになじめていない、好かれていないだけだ。「いじめ」は、主導者と悪意が存在しなければ成り立たない。
何が理由であろうといじめというものは絶対によくないわけだが、しかし、誰かが好かれていない、なじめていないという状況は多かれ少なかれ、必ず発生してしまうものだ。そして馴染めない状況は、多くの場合その本人に原因がある。なのにそれを「いじめ」であるとその本人が主張するのであれば、周囲はたまったものじゃないだろう。周囲のことを考えられないようなわがままな人間に、どうしてこちらばかりが気を使わねばならないのか。そう考えて、ますますその本人は好かれなくなっていく。
「浮いている」人間が、自分がわがままであると気付くのは難しい話だろう。そういった人間は大抵、自分が正しいと思っているから。
「浮いていない」我々は、「浮いている」人間にならないように気をつければいい。「浮いている」人間は、放っておけばいいのだ。痛い目を見るのは自分なのだから。
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