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わたしは話を書くのが好きなのだが、気付かぬうちに、繰り返し、繰り返し書いている話がある。
早朝。深夜。海。失踪。人に気付かれずに。
キーワードにすると、大方こんな感じだ。
繰り返しているということは、恐らくこれらはわたしの願望なわけで、だからつまるところ、わたしは人知れずに、いなくなりたいのだろう。
実際にそんなことは出来ないから、余計に繰り返して書いてしまう。
何度書いても、何度書いても、いっこうに満足ができないのは、わたしの中の願望が消えないからだ。
本当に、人知れずいなくなれたら、どれだけいいだろう。
しかし死ぬのはこわい。死なずに一日か二日だけいなくなってみる、というのもアリかもしれないけれども、それをしたら怒られるのはわたしだ。怒られるのは好きではないし、怒られてまでしようとは思えない。わたしは臆病ものなのだ。
でも、いつか踏ん切りがついたら、本当にやってしまうかもしれない。恐ろしい話だ。
そうやって他人事で捉えているうちは、まだ大丈夫だろうか。
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知っていますか。
絞首刑のなんと残虐なことを。
.
今日のわたしは饒舌なので、いつもと同じような話をします。

わたしは、あまり自分に自信がありません。
自分に出来ること、人より少しでも優れているところが、圧倒的にないからです。
それでも不思議なもんで、わたしの周りにはわたしを好いてくれる人が居ます。しかも結構居ます(自惚れかもしれませんが)。
みんなはわたしの何がよくって一緒にいてくれるのでしょう? これは、わたしが十六年ばかり生きてきて、最大の謎です。
だって、わたしがもしわたしでなく、わたしの周囲にいる別の誰かだったとしたら、わたしはわたしとお近づきにはなりたくないですよ。(なんてややこしい文章だ)
本当に、何がよくって傍にいるんでしょうか。
自分で言うのもなかなか嫌ですが、わたしはまず、頭がよくありません。勉強的な意味でもそうですし、頭の回転とか、なかなかダメです。なによりもまずわたしは頭が悪いです。それに加えて性格も良くありません。むしろ悪いです。どろっどろです。表に出てないようで出てますので、これは結構わかりやすいと思いますが。それに加えてわりとわがままですし、自己中心的です。普段、冗談で「わたしかわいいからー」とか言ってますが、別にそんなこともありません。良くて人並みです。これといった特技もありませんし、一緒にいて得をすることもないです。みんなに「すげー!」と言われることは何一つないし、みんなを喜ばせてあげることも何一つありません。いつもまわりには迷惑をかけてばかりいます。迷惑しかかけてない勢いで迷惑をかけています。
何を大げさな、と文章を読む限り思うかもしれませんが、これらはわりと真実です。少なくとも自分ではそう思っています。他のみんながもっと好意的に見ていてくれたとしても、わたしは、このような自己評価しか自分に下せません。それくらいわたしはろくでもない人間だからです。
しかし、なんとまあクズなことに、わたくしの劣等感と矜持は比例しております。ここまで読んで、わたしが劣等感の塊だと感じられたのなら、それと同じだけ矜持、つまるところプライドも高いとお考えください。わたしというのはそれくらいのクズです。
だから、わたしは人に、自分の考えていることを話すのが苦手です。本当に心の奥底に思っていることほど、誰にも言いません。心の奥底に封印してあります。
それでも堪え切れなくなったら自分一人にしか見えないような、けれどもおおっぴらに公開してあるような場所(つまるところここ)に、思いを文章にしてポイ捨てしてあるわけです。でもそれはわたし的に最終手段で、つまるところ、わたしは溜めこむタイプなのです。いい言葉も、悪い言葉も。
こんな文を、こんな考え方を、わたしの好きな人たちに見られるとなったら、たまったもんじゃないです。わたしの矜持が、劣等感が、見せることを阻みます。
結局、これを書いてていちばん何が言いたいかっていったら、みんなに「なんであたしの傍にいるの?」って尋ねたいのです。
なんでわたしの傍にいるんですか?
なんでわたしのこと、好きでいてくれるんですか?
不思議で不思議で、しかたがないです。みんなわたしのどのあたりを見て一緒にいるんですか? こんな劣等感と矜持の塊のどこらへんを見て、好意的になってくれてるんですか? 可能ならば聞きたい。面と向かって。しかしそれは出来ない。なぜならわたしが劣等感と矜持の塊だから。すべてはこのふたつが悪いのです。この、わたしを形作っているふたつが。
ちなみに、わたしは、わたしの周りにいるすべての人が好きです。みんなのいいところならいくらでも並べることが出来ます。
そう考えると、わたしがいかに自分のことが嫌いか、というのがよくわかりますね。
わたしは自分が嫌いです。でも嫌いな自分を好きでいてくれるみんなは好きです。みんなが好きでいてくれる自分、と考えると、ちょっとは好きになれるでしょうか。
文章が支離滅裂ですが今にはじまったことではありません、元々です。
言いたいことを言おうとするほど、文章にまとまりが失われていく。
いつも同じような話をしていますが、それはわたしがいつも同じようなことを思っているからです。多分、この考え方は一生消えないんじゃないでしょうか。
いちばんおそろしいことのお話
.

「変わっている人」と「浮いている人」は、決してイコールではない。
前者は、どれだけ周りとかけ離れた性格や思考をしていても、必要があればきちんとその場、周りに合わせることが出来る人間だ。だからこそ、周りに馴染んで、受け入れてもらうことができる。要は、変わっていても相手や集団のことを考えられる人間が、自らのアイデンティティをプラスの方向にとらえてもらえるわけである。
それが出来ない後者は、ただの協調性のない困ったちゃんでしかない。人のことを考えない人間が自分のことを考えてもらえないのは、至極当然のことと言えよう。
「浮いている」人間には、性格に難のある人物が圧倒的に多い。だから「浮く」のだとも言えるだろう。
「変わっている」人は、性格は変わってこそいるが、決して悪くはない。そこが、「浮いている人」と「変わっている人」の差異だろう。
それなのに、「自分は人と違うから周りと合わないのは当然、合わせる必要もない、でも周りは自分を認めなければならない」なんて、身勝手な勘違いをしている人間が後者には多い。そうして、周りは自分よりも劣っているのだとか、周りの人間はくだらないのだとか、そう言ったことをのたまうのだ。
そのことでいじめに遭っている、と思う人間もいる。尤も、それはただ「浮いている」だけなのであって、決していじめの範疇には入らないはずなのだが。
「いじめ」とは、いじめられている人間がいじめだと感じたらそうである、というのを聞いたことはある。しかし、それは違うだろう。無意識に、主導者不在で行われているのなら、それは単純にその人物が周りになじめていない、好かれていないだけだ。「いじめ」は、主導者と悪意が存在しなければ成り立たない。
何が理由であろうといじめというものは絶対によくないわけだが、しかし、誰かが好かれていない、なじめていないという状況は多かれ少なかれ、必ず発生してしまうものだ。そして馴染めない状況は、多くの場合その本人に原因がある。なのにそれを「いじめ」であるとその本人が主張するのであれば、周囲はたまったものじゃないだろう。周囲のことを考えられないようなわがままな人間に、どうしてこちらばかりが気を使わねばならないのか。そう考えて、ますますその本人は好かれなくなっていく。
「浮いている」人間が、自分がわがままであると気付くのは難しい話だろう。そういった人間は大抵、自分が正しいと思っているから。
「浮いていない」我々は、「浮いている」人間にならないように気をつければいい。「浮いている」人間は、放っておけばいいのだ。痛い目を見るのは自分なのだから。
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BrownBetty 
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