『私の名前をお知りになりたいのでしょう?』
そう言って、少女は笑った。
林檎のような少女だと、私は思った。
白く美しい肌に、少しだけ赤い頬。
切れ長の涼しい瞳。
林檎のように美しい少女だった。
『でも、今思い出せなくて悲しいのです』
少女はそう、本当に悲しげに笑った。
「自分の名前なのに、思い出せないのかい?」
私が問いかけると、少女はこう答えた。
『しばらく使っていないもので。というより、私に名前などあったかどうすらわからないのです』
それから少女は、私にこんなお願いをした。
『どうぞ、お好きにお呼びになってください』
「そう言われても、ね」
『ああ、そういえば、少しだけ思い出しました。私の名は、五月に花を咲かす植物だと母が仰っておりました』
「五月か」
『ええ、五月です』
林檎も五月に花を咲かせたな、なんて頭の片隅で呟く。
窓を風が叩く。
それにつられて外を見ると、木通が開いていた。
『秋色の合図でしょうか』
「え?」
『木通』
「ああ」
それから私と少女は、黙って窓の外を見ていた。
ポツリと、少女が呟いた。
『季節が、黙って去るのは、寂しいですか?』
「どういうことだい?」
『季節というのは、ひたすらに寡黙です。訪れる時も去る時も、何も言わない。それは、寂しいですか?』
「さあ、どうだろうね。少なくとも私は、それが当たり前だと感じている」
『そうですか』
少女の言葉で、私はふと過去の事を思い出していた。
自分がここに来た経緯。
少女と出会うずっとずっとずっと前の話。
辛苦の果てにたどりついたのは、絶望の淵。
『泪を拭いてください』
「え?」
『顔も、あげてください』
「・・・・・・あぁ」
知らぬ間に私は泣いていたようだ。
らしくないと自覚しながら、涙を拭い顔を上げた。
『あなたも、人間ですね』
「君もだろう?」
唐突な言葉に、思わず言う。
少女はその言葉に、悲しげに首を振った。
『私が憧れてるのは、人間なのです』
「え?」
『啼いたり、嗤ったりできる、そのことが素敵』
「君もしてるじゃないか」
『いいえ、私のはハリボテです。私は人間ではない』
その言葉を聞いて、私はどこかピンとくるものがあった。
『でも、今思い出せなくて悲しいのです』
少女は、自らの名についてそう語った。
ならば私が。私が思い出させてあげよう。
「君の名前は、」
『え?』
「君は、『林檎』ではないかな?」
私がそう言うと、少女の顔がぱぁっと明るくなった。
『たった今、私の名がわかりました』
少女の姿が、薄く透明になる。
『あなたがおっしゃる通りの林檎です』
少女が消えた。
少女の居た場所には、ひとつの大きな、真っ赤な林檎。
『召しませ、罪の果実!』
私はその林檎を拾い上げた。
口に運んで齧ると、甘かった。
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